出版物
史料纂集古記録編 第157回配本 勘仲記2 (しりょうさんしゅうこきろくへん157 かんちゅうき2)
本体13,000円+税
初版発行:2010年6月20日 A5判・上製・函入・352頁 ISBN 978-4-8406-5157-8 C3321
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蒙古襲来前後の朝廷の様子や、持明院・大覚寺両統迭立など、重要な事件を目撃した実務官人の克明な記録を自筆本により翻刻
【内容説明】■史料纂集本勘仲記の特長
●自筆本を底本とする最善の本文を提供。
●断簡や逸文、日記本文が現存しない部分の日記目録も収録。
●墨継ぎや文字間隔、追筆・挿入・抹消に見られる兼仲の筆録意識を読み取るなど、最新の研究成果に基づく、最善の本文を提供。
■勘仲記とは
藤原(広橋)兼仲(一二四四—一三〇八)の日記。日記名は勘解由小路中納言兼仲の称に由来する。別名『兼仲卿記』。国立歴史民俗博物館に自筆本九十巻が所蔵されているほか、若干の断簡や逸文が伝わっている。日野流の広橋家は文筆の家として朝廷に仕え、兼仲の父経光の 『民経記』など、代々日記を残した。
本記は将軍惟康親王の京都送還と久明親王の将軍宣下・関東下向など鎌倉幕府と朝廷との関係、持明院・大覚寺両統迭立、鎌倉後期の公家訴訟制度の実態と整備、摂関家の家政、畿内寺社や在地の動向、詩文・神楽、仏教説話的な言説等々、政治・経済・宗教・文化・芸能、さらに宮廷儀式と多方面にわたる十三世紀後半の一級史料である。
とりわけ二度の蒙古襲来とその前後の京都の状況を知る重要な記事を多く含み、朝廷・寺社がこの事態にいかに対処したかを看取できる。
■藤原兼仲
父は経光、母は藤原親実の女。正嘉二年(一二五七)十四歳で叙爵し、治部少輔や摂関家の政所別当などを勤めた。兄兼頼が弘安三年(一二八〇)死去した後、家を継いで四十一歳で蔵人となり、弁官や亀山上皇の院司にもなった。正応五年(一二九二)に蔵人頭から参議となって公卿に列し、永仁元年(一二九三)には権中納言となったが、翌年、これを辞し、延慶元年(一三〇八)六十五歳で死去した。
〔収録範囲〕
②1278年〔弘安元〕~1282年〔弘安5〕
【第2巻のみどころ】
●再び、蒙古襲来す
弘安4年(1281)6月、大宰府から蒙古襲来の報が届いた。いわゆる弘安の役である。長門・対馬をも襲った異国船は、大風波のために沈没し、数千の兵が残された。
●興福寺衆徒、春日神木を捧げて入洛す
京都南郊では神人・悪党の活動が活発化し、多武峯焼き討ちなど権門間の争いも激化した。興福寺と石清水八幡宮の相論が神木入洛に発展すると、朝廷・幕府は協力して解決の道を探った。
●宝蔵の重宝を覧ず
鳥羽や宇治には古今東西の宝物を収める蔵があった。そこに赴いた上皇や氏長者は、『漢書』や宝珠を取り出し、平安時代の絵師巨勢公望・広貴の絵画を鑑賞した。
●御所辺、昔より此の如き物御受用なし
鎌倉幕府の実力者安達泰盛が、荘園の請所化を求めて、摂政のもとに金品を贈ってきた。しかし、摂関家では昔からこのような物を受け取っていないと、過分な太刀・砂金は突き返された。
【目次】【所収】弘安元年(1278)~弘安5年(1282)9月
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