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史料纂集古記録編 第189回配本 勘仲記5 (しりょうさんしゅうこきろくへん189 かんちゅうき5)

高橋秀樹・櫻井彦・遠藤珠紀校訂

キーワード:
藤原兼仲 / 広橋兼仲 / 文化 / 朝廷 / 元寇 / 宗教 / 鎌倉 / 芸能 / 古記録 / 政治 / 両統迭立 / 経済 / 宮廷儀式

本体13,000円+税

初版発行:2017年4月30日 A5判・上製・函入・314頁 ISBN 978-4-8406-5189-9 C3321



蒙古襲来前後の朝廷の様子や、持明院・大覚寺両統迭立など、重要な事件を目撃した実務官人の克明な記録を自筆本により翻刻

【内容説明】■史料纂集本勘仲記の特長
●自筆本を底本とする最善の本文を提供。
●断簡や逸文、日記本文が現存しない部分の日記目録も収録。
●墨継ぎや文字間隔、追筆・挿入・抹消に見られる兼仲の筆録意識を読み取るなど、最新の研究成果に基づく、最善の本文を提供。


■勘仲記とは
藤原(広橋)兼仲(一二四四—一三〇八)の日記。日記名は勘解由小路中納言兼仲の称に由来する。別名『兼仲卿記』。国立歴史民俗博物館に自筆本九十巻が所蔵されているほか、若干の断簡や逸文が伝わっている。日野流の広橋家は文筆の家として朝廷に仕え、兼仲の父経光の 『民経記』など、代々日記を残した。
 本記は将軍惟康親王の京都送還と久明親王の将軍宣下・関東下向など鎌倉幕府と朝廷との関係、持明院・大覚寺両統迭立、鎌倉後期の公家訴訟制度の実態と整備、摂関家の家政、畿内寺社や在地の動向、詩文・神楽、仏教説話的な言説等々、政治・経済・宗教・文化・芸能、さらに宮廷儀式と多方面にわたる十三世紀後半の一級史料である。
 とりわけ二度の蒙古襲来とその前後の京都の状況を知る重要な記事を多く含み、朝廷・寺社がこの事態にいかに対処したかを看取できる。

■藤原兼仲
父は経光、母は藤原親実の女。正嘉二年(一二五七)十四歳で叙爵し、治部少輔や摂関家の政所別当などを勤めた。兄兼頼が弘安三年(一二八〇)死去した後、家を継いで四十一歳で蔵人となり、弁官や亀山上皇の院司にもなった。正応五年(一二九二)に蔵人頭から参議となって公卿に列し、永仁元年(一二九三)には権中納言となったが、翌年、これを辞し、延慶元年(一三〇八)六十五歳で死去した。



本冊には弘安九年(一二八六)十月日次記より正応元年(一二八八)暦記(正月~十二月)を収録しました。
この時期の古記録はほとんど残っておらず大変貴重です。内容的にも見所は沢山あります。
たとえば、後宇多天皇が幕府の意向を受けて伏見天皇に譲位する記事です(弘安十年十月十二日~二十一日条)。これによって院政の主も後宇多の父亀山上皇から伏見の父後深草上皇に変わります。いわゆる「両統迭立」のはじまりです。新たに天皇となる春宮の御所が、「御所中上下騒動、人々群参如雲霞」と、慌ただしくなる一方で、「治天」の地位から下ろされた亀山上皇の御所は数人の近臣がいるだけで、「有冷然之気」と記されています。
同年、長らく関白を務めた藤原(鷹司)兼平もその職を終えました。兼平は、建長六年(一二五四)に関白となって以来、途中辞任するものの、三十二年間、摂政・関白の座に在りました。本日記には、辞任一年前より兼平に関白辞任の意志があったこと、辞職したのちも出仕を止められなかったことなどが記され、記主の兼仲は「前長者(藤原兼平)建長度十个年、今度十三个年、前後廿三个年御執政、頗近例稀歟、定無御餘執歟」と評しています(弘安十年八月九日~十一日条)。
鎌倉幕府の将軍源惟康の中納言・大納言への昇進や親王宣下をめぐる公武交渉の記事(弘安十年六月三日~五日条、同年十月三日条ほか)なども注目されます。

【目次】【所収】弘安9年(1286)10月~正応元年(1288)12月


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