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史料纂集古記録編 第176回配本 楽只堂年録4(全10冊予定) (しりょうさんしゅうこきろくへん176 らくしどうねんろく4)
【収録期間】1702〔元禄15〕~1703〔元禄16〕
本体14,000円+税
初版発行:2015年3月20日 A5判・上製・函入・268頁 ISBN 978-4-8406-5176-9 C3321
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徳川第5代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保の公用日記!
【内容説明】●『楽只堂年録』は柳沢吉保の号、楽只堂にちなんで命名された、吉保の公用日記。初の全文翻刻。
●吉保の先代の記述に始まり、宝永6年(1709)1月10日の徳川5代将軍綱吉薨去後、致仕を許され、同年6月に嫡男吉里に家督を譲り隠遁するまでを記録。
●柳沢吉保の生涯は、周囲の嫉妬も手伝いまげて伝えられてきた。本書の刊行によって、吉保本人は勿論、犬公方として悪名高い綱吉の実像、幕臣達や吉保一族の動向、柳沢家と公家衆との文化交流、大奥の女性の生活等、『徳川実紀』や『寛政重修諸家譜』などから浮かび上がってこない貴重な事実を知ることが出来る。
●江戸期、特に元禄時代を中心とした時代の文化、文芸、歴史を研究する者にとっては必読の一級史料である。
柳沢吉保(1658-1714)とは…
柳沢吉保は、徳川五代将軍綱吉の側用人として奉公し、綱吉の寵愛を受け大老格という破格の出世を遂げた。吉保は館林藩主であった綱吉に仕えていたが、延宝8年(1680)、綱吉の将軍就任に伴い幕臣となり、以降、寵愛を受け頻繁に加増され、松平の家号を許され、綱吉の偏諱を与えられた。儒学の上では綱吉の一番弟子であり、文芸、ことに和歌詠作にも熱心であり、公家とも交流を行っていた。宝永6年(1709)綱吉薨去後は、嫡男吉里に家督を譲ると駒込の下屋敷六義園に隠遁し、正徳4年(1714)没した。
【見どころ】
本冊には、吉保45歳~46歳の元禄15年(1702)9月から同16年(1703)12月迄を収録しました。
巻頭のカラー口絵には、「六義園の図」3巻の中から「新玉松・芦辺・吟花亭・妹与背山・藤里・久護山」(部分)と、本文中の「壬午九月 御成新御殿図」、「六義園図」を掲載することができました。
記事によれば、元禄15年9月14日の御成御殿の経営成就、同10月21日、吉保は六義園に「様々の名所」として「八十八境」を定め、「園を六義園」とし「六義園記」を自ら著しました。「六義園記」は本書に収録されています。その記述には、六義園作庭の精神的中核ともなった和歌に因む名所について、和歌を交じえて解説があります。吉保自身の設計にかかる六義園への思いのすべてが込められているといっても過言ではないでしょう。また、この庭園図からは、初期の六義園の姿を偲ぶことができます。
元禄15年12月15日、赤穂浪士の討入の記事が見えます。浅野内匠頭の家臣46人が吉良邸に押し入り、義央を殺し泉岳寺に立退き、他家に御預けになります。 翌年2月4日、切腹を仰付られていく過程が淡々と記述されています。
元禄16年11月23日、元禄の大地震が起こります。この地震の震源地は、千葉県の野島崎と推定されており、その規模は関東大震災よりも大きいものでした。
本書では「今暁八つ半時、希有の大地震によりて、吉保・吉里、急て登城す、大手の堀の水溢れて橋の上を越すによりて、供の士、背に負て過く」とあり、各地に甚大な被害をもたらしました。吉保の許に入った情報によれば、死者は約6,700人、潰家や津波による流失家屋は約3万軒とあり、同月29日に起った火災により更に20万人余りの人命が失なわれたとされる未曾有の大惨事となりました。この地震の被害状況を具体的に知りうる良質の史料として活用が期待されます。
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