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史料纂集古記録編 第182回配本 楽只堂年録5(全10冊予定)
在庫あり

史料纂集古記録編 第182回配本 楽只堂年録5(全10冊予定) (しりょうさんしゅうこきろくへん182 らくしどうねんろく5)

【収録期間】宝永元年(1704)正月~宝永2年(1705)3月

宮川葉子校訂

キーワード:
甲府城 / 六義園 / 徳川綱吉 / 桂昌院 / 柳沢吉里 / 元禄文化 / 柳沢吉保 / 大奥 / 元禄時代

本体14,000円+税

初版発行:2016年2月20日 A5判・上製・函入・252頁 ISBN 978-4-8406-5182-0 C3321



徳川第5代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保の公用日記!

【内容説明】●『楽只堂年録』は柳沢吉保の号、楽只堂にちなんで命名された、吉保の公用日記。初の全文翻刻。
●吉保の先代の記述に始まり、宝永6年(1709)1月10日の徳川5代将軍綱吉薨去後、致仕を許され、同年6月に嫡男吉里に家督を譲り隠遁するまでを記録。
●柳沢吉保の生涯は、周囲の嫉妬も手伝いまげて伝えられてきた。本書の刊行によって、吉保本人は勿論、犬公方として悪名高い綱吉の実像、幕臣達や吉保一族の動向、柳沢家と公家衆との文化交流、大奥の女性の生活等、『徳川実紀』や『寛政重修諸家譜』などから浮かび上がってこない貴重な事実を知ることが出来る。
●江戸期、特に元禄時代を中心とした時代の文化、文芸、歴史を研究する者にとっては必読の一級史料である。


 柳沢吉保(1658-1714)とは…

 柳沢吉保は、徳川五代将軍綱吉の側用人として奉公し、綱吉の寵愛を受け大老格という破格の出世を遂げた。吉保は館林藩主であった綱吉に仕えていたが、延宝8年(1680)、綱吉の将軍就任に伴い幕臣となり、以降、寵愛を受け頻繁に加増され、松平の家号を許され、綱吉の偏諱を与えられた。儒学の上では綱吉の一番弟子であり、文芸、ことに和歌詠作にも熱心であり、公家とも交流を行っていた。宝永6年(1709)綱吉薨去後は、嫡男吉里に家督を譲ると駒込の下屋敷六義園に隠遁し、正徳4年(1714)没した。

本巻には、宝永元年(1704)正月から同2年3月までを収録しました。吉保47歳から48歳の年にあたります。2月、吉保継嗣吉里が酒井忠挙女頼子と婚姻。吉里の新居では「松に多春を契る」題で新婚を寿ぐ歌会が催されました。私的な歌会ながら、当時の武家社会での文芸活動の実際が知られます。またこの頃、吉保・吉里父子が霊元上皇に献上した「千首和歌」が、仙洞官庫に永久保存される栄誉を担います。父子は多大な礼物を献上しますが、霊元上皇の柳澤家ご愛顧が窺える一件でした。3月13日、元禄17年は宝永元年になります。同じ頃、吉保側室町子の「千首和歌」も仙洞官庫に永久保存されることになりました。結果的に見て、この頃が柳沢家の文芸活動の最盛期であったと言えるようです。ただ、悲しいこともありました。4月12日、綱吉息女で、紀伊徳川綱教室であった鶴姫が28歳の若さで逝去してしまったことです。吉保は我が娘のように日々配慮し続けた姫の逝去に、落胆をぬぐえませんでした。12月には、吉保はお抱えの学者に命じ、源義経筆の『素書』(兵法書)に注釈作業をなさせ、吉保自身で序・跋を加え『素書国字解』と名付け吉里に与えました。武家の正統を証するあかしの一つと考えてのことだったようです。そしていよいよ同月。継嗣がなかった綱吉は、吉保の尽力を得て、ついに甲府宰相綱豊を継嗣に決定します。この尽力への恩賞として甲斐国を賜った吉保は、15万石(内高22万余石)に増禄します。川越城は秋元喬知に明け渡し、綱豊からの甲府城の受け取りは、宝永2年3月のことでした。

口絵に収録した「甲斐国絵図」は、幕府の命令で甲府城主徳川綱豊が作成したものの控えです。江戸時代の甲斐国の景観を知る基本資料となっています。


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