出版物
史料纂集古記録編 第148回配本 太梁公日記2(全8冊予定) (しりょうさんしゅうこきろくへん148 たいりょうこうにっき2)
本体14,000円+税
初版発行:2008年1月15日 A5判・上製・函入・322頁 ISBN 978-4-8406-5148-6 C3321
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加賀百万石、前田家11代藩主の自筆日記!
【内容説明】『史料纂集』は、史学・文学をはじめ、日本文化研究上必須のものでありながら、今日まで未刊に終っていた史料を中核とし、さらに既刊のものでも、現段階において全面的に改訂を要することの明らかなそれを加えて、学界最高の水準で公刊するもの、『大日本古記録』と相並び相補う形で、各時代未刊重要史料の集成の実現をはかるものであります。
●江戸時代中期の大名当主の日記として、数少ない貴重史料。
●幕府との折衝、藩内の年寄役との交渉など、藩主の日記として異彩を放ち、殿様の人間味あふれる心情も窺える。
●本冊には、明和9年(1772)~安永2年(1773)を収録。
●原本の体裁を忠実に翻刻し、読解の手引きとなる「通称と諱・役職名等の対照表」を各冊末に付録。
【著者】長山直治
金沢市出身。金沢大学教育学部卒業、県内各地の県立高校教諭を歴任。石川県立図書館(古文書課) 金沢市史専門委員。2003年石川県立工業高等学校教諭を定年退職。
主要著書・論文:『寺島蔵人と加賀藩政−化成天保期の百万石群像−』(桂書房,2003;泉鏡花記念金沢市民文化賞受賞)
『太鼓役者の家と芸−金沢・飯島家十代の歴史-』(飯島調寿会,2005)
「加賀藩十代藩主前田重教の隠居と治脩の家督 上・下」(2004/2005,『ぐんしょ』66/67)
「能と藩主−加賀十二代藩主前田斉広の場合−」(1994,『石川郷土史学会誌』)
「葛巻昌興日記に見る前田綱教の能稽古の端緒」(1996,『石川郷土史学会誌』)他
江戸時代中期の大名当主の日記として大変貴重な自筆本の初の全文翻刻である。
『太梁公日記』
加賀藩11代藩主前田治脩(はるなが;1745-1810)の日記で、自筆原本は(財)前田育徳会尊経閣文庫の所蔵。現存するものは、40冊。治脩(はるなが)が藩主になる直前の、兄重教(しげみち)の隠居願が幕府に提出された明和8年(1771)4月16日から書き始められ、4年後の安永4年(1775)4月19日で終わっている。
本日記は、かつて『加賀藩史料』や『金沢市史』に部分的に引用・翻刻されたが、全文の翻刻は、今回の史料纂集本が初めてである。
前田治脩(はるなが)とは
加賀藩11代藩主(太梁公は諡)。延享2年(1745)、6代藩主吉徳(よしのり)の十男として金沢に生まれる。同3年に僅か2歳にして越中国国府の浄土真宗本願寺派の勝興寺の住職に定められ、宝暦6年(1756)同寺に移り住職となる。治脩は、藩財政の立直しと、士風の退廃に対処して忠孝節義を重視し、藩校を建設するなどしたが、天明5年(1785)、隠居した兄:重教が勝手方を親裁して家中救済・綱紀粛正をはかる「御改法」を行った。享和2年(1802)に隠居し、文化7年(1810)金沢で死去。
内容説明
江戸幕府との交渉や江戸城内での儀礼、諸大名や一族と交際、藩内の年寄などからの藩政に関する伺いとそれに対する指示、寺社への参詣、遊興や日常生活など公私にわたって克明に記述されている。中でも隠居した先代の重教との関わりを示す記事が多く、とくに在府中は、朝のご機嫌伺いから始まり、日中は鞠・能・弓・鉄砲乗馬・騎射・鳥刺などの相手を勤め、夜は食事の相伴をするなど、親密にして恭敬な態度で接している。
『太梁公日記』は、治脩が藩主としての心覚えとして書き始められたものと考えられるが、所々に記主治脩の感想が記され、かれの人柄が偲ばれる。また、重教の隠居と治脩の家督相続の経緯、藩内の財政事情や相続に伴う藩内人事も詳細に知ることが出来る。
加賀藩の政治史は勿論のこと、当時の政治・社会・経済・文化・芸能・交通史の研究に貴重な史料を提供してくれる。
○本文より
金沢から江戸への参勤道中記(1772年7/13~7/25:本文1~21p)
江戸から金沢への道中日記からは、当時の参勤道中の様子と治脩の人間性を窺うことができる。金沢を出発した行列は、倶利伽羅峠を越えて、越中に入り、越後→信濃→上野と南下し、武蔵江戸に至る全行程を活写しています。
越中高岡(2p下段)当地の鮎・西瓜を探させたところ、鮎は今年は洪水等で入手出来ず、 西瓜も充分には無い…と膳奉行が言上したので、西瓜を食べてみたところ…味が薄く五片で止めた。
越後親不知(6p上段)駕籠の中が暑く火風呂のごとき暑さだ。
越後糸魚川(7p 上段)海辺の風光を楽しむ。
越後関川(10p上段)旅宿が、はなはだ不潔で不愉快だ。畳など真白く黴て胸が悪く、夕飯を食べなかった。
信濃犀川(11p上段)河原は日差しが照りつけ、火を背負っているようだが、水辺ゆえ少しは風がある。
信濃横吹(12p上段)道中第一の難所。
信濃榊(12p上段)夜、うどん三椀を食べる。
信濃海野(12p下段)当地の鰻が名物とのことなので、早速焼かせて二切れ食べたが、味は格別と言うほどではなかった。供の中に、卵にて食傷する者が多いとの噂を聞き膳奉行に卵を食膳に上げないように命ずる。
上野倉賀野(16p 上段)酷暑のため騎馬にて出発する。馬上の方が駕籠より風もあり、第一見晴らしが良い。
武蔵本庄(17p 上段)歩行して路傍のくさむらに鈴虫・松虫の声を聞く。
武蔵江戸(21p 下段)江戸到着の嬉しさは、龍に雲を得たような心地である。
芸能関係 能について
10代藩主の重教は、明和8年(1771)の隠居後は好きな能と鷹狩に熱中した。隠居後の、重教の能への傾倒ぶりと江戸での様子について
「重教の御能大原御幸を拝見」(本文31p上段)を初見として多数の記事が見られる。治脩の能について本書は、安永元年(1772)12月から謡稽古の記事が見え、翌年正月25日には重教の前で初めて「蟻通し」「龍田」を謡っている(本文295p下段)。
本書には、治脩が江戸滞在中に、重教が催した能が番組入りで記載されている。これによれば、多いときは、二日に一度の割に行われていることが解る。重教自らシテを勤め、番組は、1回につき二、三番程度で、能以外にも囃子・仕舞・一調・独鼓・独吟・蘭曲など種々の形式で楽しんでいる。
第二冊には、明和九年(一七七二)~安永二年(一七七三)を収録。11世宝生九郎(友精)のほか、宝生友通・英勝・明喬らが登場するが、これら人物特定のために「通称と諱・役職名等の対照表」を各巻末に附録した。
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