出版物
史料纂集古記録編 第209回配本 花月日記1 (しりょうさんしゅうこきろくへん209 かげつにっき1)
本体16,000円+税
初版発行:2020年12月20日 A5判・上製・函入・300頁 ISBN 978-4-8406-5209-4 C3321
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江戸幕府老中、松平定信(1758~1829)の晩年の日記。白河藩主致仕の日をもって起筆、以後逝去の前年までの日記
【内容説明】若くして徳川幕府老中首座・将軍補佐となり、「寛政の改革」を断行した松平定信(1758ー1829)。その定信が白河藩主致仕の日(文化9年4月6日 55歳)を以て起筆、以後、逝去前年の文政11年末まで書き続けた17年間の日次記が『花月日記』である。
退隠後は、住居を江戸築地の藩邸下屋敷「浴恩園」に移し、自ら「楽翁」また「花月翁」と称した。優雅な擬古文でつづられた当『花月日記』の記述の多くは、2万坪の大庭園「浴恩園」での、四季の花々を愛で、月を賞し、心知れる友と語らう、風流清雅な日々の記といってよい。文中には、その時々に数多の和歌が詠み込まれ、さながら歌日記の態をなしている。定信生前に歌集として版行されたのは『三草集』930余首のみであるが、この『花月日記』に詠み込まれた歌は各年300~400首を超える。17年間を通しては一体どれだけの量となるだろうか。
日記中によく登場する人々は子息や娘たち、近親、またごく親しい友人たちである。
まず息定永とその正室綱子、次郎である定栄(真田家養嗣子、後の真田幸貫)、また、各大名の正室となっていく娘たちとその夫、定信の後室隼、さらに姉・妹・実母…。
ごく近しい友人として折にふれて記されているのは「月の君」こと堀田正敦、「林の君」こと林述斎である。この二人との「底意なき交じらい」「心隔てぬ友垣」の様には何よりも美しいものがある。時々には内藤信敦・松平輝延・牧野忠精・酒井忠進・松浦静山…、また「寛政の改革」以降も定信の政治基調を維持したいわゆる「寛政の遺老」松平信明等。
幕政を離れ、さらには藩主も退任して後の定信ではあるが、助言・教導を求めて来訪・対面を願う者は絶えなかった。定信はそのほとんどを謝絶、または1年延ばしなどとはするものの、それでも、日記中には多彩な人物の名が見える。様々な大名家当主、世子、藩の問題を抱えた家老達。また、当代の文化人、北村季文・市川米庵・屋代弘賢等との交流、時に杉田玄白・頼山陽・村田春海・塙保己一等の名もあがる。
定信は、日記中には幕政に対する批判は厳に慎んでいる。繰り返されているのは当代の御代の豊かさに対する賛辞と感謝である。しかし、やはりその中には、定信自身の思い、考え、また志といったものも、何かの折には現れてくる。稀に激越な口調となるのが、当時の世情、特に、ロシアその他からの異国船来航に対しての海辺防備への不安と焦燥である。定信は、文化7年、幕府長年の懸案であった江戸湾警備の一環として房総半島警備の任に就く。自ら望んでの任であったようだ。文政6年3月、桑名への転封と共に同任も解かれるが、その時『花月日記』には、その間に藩で整えた防備のための大筒「一貫目六尺筒」以下225挺が一つ一つ記されており、定信の心情が思われる。
『花月日記』の中に折々に記されている、定信の見識を通じての、当代の世情、事件、及び政治・文化面の具体的な記述、様々な人物への評言には、実に興味深いものがある。
【目次】【所収】文化9年(1812)4月~文化10年(1813)12月
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